まえたなのblog

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今様の歴史

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  今様の歴史
今様
平安時代中期から鎌倉時代初期にかけて今様が流行した。しかし歴史の書物の中に初めて登場するのは一条天皇の時代である。もとは農民のなかで広まっていたが雅人親王、後の後白河院がこれに熱中し梁塵秘抄にまとめた。一説によると今様を歌いすぎて何度も喉をつぶしたとか。また農民以外の今様の主な担い手は、遊女や傀儡、白拍子であった。農民から貴族、天皇まで誰でも親しみ、歌うことのできるものだったが遊女や傀儡、白拍子等は今様に舞をつけ歌う今でいうプロのような存在であった。また今様は庶民からも人気があったためその内容からその当時の人々の生活や思いなどを垣間見ることができる。例えば、「鵜飼はいとほしや 万劫年経る亀殺し なた鵜の首を結ひ現世はかくてもありぬべし 後生わが身をいかにせん」という歌では、自らの生活のため亀などいきものを殺さなければならないことに対する罪の思いが込められている。現代の音楽とは形は違うが感情を歌にしている点においては現代のポプュラー音楽の歌詞と似ているてんでもある。
歴史的観点から見る今様
今様が歴史に与えた影響の一つとして後白河院の誕生がある。もともと皇位継承するとは思われておらず後白河天皇即位は皆を驚かせる出来事だった。雅人親王(後の後白河天皇)は非常に今様に興味を持ち、歌のうまい人がいるという話を聞くと身分を問わず屋敷に招き教えてもらっていた。そんなことから政治に興味がなく野心のない人だと思われていた。そんなこともあり近衛天皇崩御したのち鳥羽上皇は、雅人親王天皇にすれば操りやすく自分が実権を握れると考え即位させたと言われている。後白河天皇の誕生が朝廷内での争いの原因の一つとなり後の保元の乱へと続く。これらは後白河天皇が今様にあまりにも熱中しすぎた延長線上の結果ともいえることから意図せず「今様」は歴史に大きな影響を及ぼしたポプュラー音楽のひとつといえる。  
平安中期にみられる今様
 今様が最も流行したのは平安末期であるが平安時代中期に書かれた『紫式部日記』にも登場している。『紫式部日記』には次のように書かれている。「琴・笛・の音などにはたどたどしき若人たちの、読経あらそひ、今様歌どもも、所につけてはをかしかりけり」。この記述から平安中期にはすでに歌われ貴族階級の人たちにも認知されていたことが分かる。またこれより前の寛弘5年の5月22日の土御門殿での法華三十講結願の記事にも法要がおわった後、今様が歌われたとある。またこの時期から約2、30年後の後朱雀天皇の時代にも今様が歌われていた。『吉野吉水院楽書』という鎌倉時代の楽書には、「今様の殊にはやることは後朱雀天皇の御時より也」と書かれている。以上のことから今様が梁塵秘抄のまとめられる前から平安の世では流行していたことが分かる。
その後の今様 
 平安時代に流行した今様だが鎌倉時代には衰退の道をたどった。中には宮廷行事の一部として残ったが江戸時代の頃にはほとんど歌われなくなった。また兼好法師の書いた「徒然草」の中に梁塵秘抄についての記述が残されている。そこには、「歌の言葉にはしみじみと感動させられることが多い」と書かれている。しかし今様に関する記述はこれだけでありその後書かれることはなかった。このことから分かるように平安のポプュラー音楽として流行した今様は鎌倉以降には完全にブームがおわっていたことが分かる。
 その後数百年が過ぎ明治末から大正初めにかけて再び注目された。その原因は、歌詞集巻一断簡と巻二、口伝集巻一断簡が発見されたことであった。これは研究対象以外にも詩人や歌人にも大きな影響を与えた。また2007年に刊行された伊藤比呂美の長篇詩『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』にも影響がみられるなど様々なところに影響を及ぼしている。また大河ドラマ清盛でも取り上げられたことで再び注目された。今後もまた注目を集める可能性がある。
参考文献
(1) 梁塵秘抄 後白河院 植木朝子
(2) 平清盛をめぐる101の謎 川口素生 2011