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前漢の歴史

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前漢の歴史
 初めて中華全土を統一した秦の滅亡後、垓下の戦いで項羽を滅ぼした劉邦は、自ら高祖となり漢を建国した。いわゆる前漢である。前漢は紀元前202から王莽により政権を奪われる紀元後8年まで続いた王朝である。漢の高祖劉邦は、都を長安として帝国の基礎を築いていった。
 呉楚七国の乱 
 漢の代6代皇帝、景帝の即位後、前154年に、有力な諸侯のうちの、呉、楚、趙など中国南東部の7国が、中央政権に対して連合し、挙兵した内乱が呉楚七国の乱である。軍を派遣したが鎮圧に失敗した景帝は、懐柔策として削藩策を提唱した晁釋錯を斬り、妥協を図った。しかし反乱は収まらず、呉王は「東帝」と称して戦闘を続けた。その後この反乱は呉王らが殺され鎮圧された。この乱の後、諸侯王の領土は削られ、種々の禁令が設けられて、王とは名のみで租税を徴収するだけとなった。これにより、皇帝の中央集権的支配が強まり支配体制が確立した。この後6代皇帝景帝の後を継いだのが7代目皇帝である武帝である。武帝の時代は前漢の最盛期ともいわれている時代である。
武帝の治世
 武帝前漢の7代目皇帝でありその時代では、儒学の官学化や匈奴征伐、支配領域の拡大など様々なことが行われた。
 前漢匈奴と対外政策 
3代目の文帝と4代目の景帝の時代では、匈奴にたいしてあや絹の着物や匈奴の使う帯の金具などの贈り物を送る懐柔策がとられていた。しかし武帝は先代たちとは違い懐柔策を取らなかった。馬邑の役では武帝の計画が失敗に終わることになった。しかしその後の衛皇后の弟、衛青の武勲は目覚ましく7度、長城を出て匈奴をうち毎回成功させた。そのため武帝は衛青を大将軍に任命した。また衛青同様に匈奴討伐で功績をあげた霍去病はその後の遠征時に衛青とともに最高の官位である大司馬に任じられている。この二人が武帝の治世で最も活躍をした人物である。しかしそのわずか4年後に霍去病が死去し匈奴に対する遠征は、以後ずっと武帝の末年まで行われることはなかった。この度重なる匈奴遠征は漢の支配領域を拡大させた。
前112年には、ベトナムの南越を滅ぼして日南郡などを置き、前108年には朝鮮にも進出して楽浪郡以下の四郡を置いて直轄領とした。このように武帝は積極的な外征を行った。積極的な外征の背景には、国内に満ちていた困窮した農民たちの生活を安定させるために、新しい農耕地を開拓する必要に迫られていたという理由があった。
武帝による儒教の官学化
 武帝は統治理念として儒教を用いた。特に儒学者董仲舒が登用され、彼の建言によって、儒学は漢の正式な官学、国教とされた。これに伴い五経博士が設置され官僚は儒学経書とされる五経を学ぶようになった。
大祭祀、封禅の儀
武帝が47歳の時に大祭祀、封禅の儀が山東省の泰山で行われた。封禅とは、「天下」が太平の状態のことを天子が天地に告げる祭りである。
中央集権化を進めた武帝
武帝が即位した時には、前代の遺制である「封建」の制度が「郡県」(天子の派遣する地方官によって帝国の全地域が統治される中央集権の制度)へとあらかた切り替わっていた。そのことを高祖、景帝に続いて郡県制の施行地を拡大し、さらに中国南部や朝鮮半島への郡県制を拡大した。また官吏登用制度では郡県制を基盤として郷挙里選の制度を設け、人材登用を図った。
 郷挙里選 
漢王朝、前2世紀の後半の武帝時代以降の官吏登用制度。武帝以前の官吏は、高官の子弟か裕福な者の子弟から登用されていたが、国家機構が拡大するにつれて人材の登用が必要となり、武帝は郡県の下の郷、さらにその下の里から、賢良方正な人物を推薦させた。このような、里から選び、郷から挙げられた人を地方長官から中央に推挙することを郷挙里選、または推薦で官吏を選ぶことを単に「選挙」といった。
武帝の財政政策
塩・鉄・酒の専売制 塩・鉄は生活に欠かせない食品と用具であるため塩商人や鉄商人は巨利を得ていた。武帝は大商人の利益を国家の利益とするためにまず前120年に塩・鉄を、前98年には酒を専売制とした。
均輸法・平準法 武帝は財務官僚桑弘羊の提言を採用し、均輸官を置いて物質の余っている地方から買い取り、不足する地域に売って利益を得る均輸法と、物価を高くし、沸貫した時に売って利益を得る平準法を採用した。
五銖銭の発行 増税・専売制などの前提になるのが貨幣制度の統一であった。そのため武帝は新しく五銖銭の発行をして貨幣制度の統一を図った。
武帝の晩年
 武帝の皇太子である戻太子が、武帝が66歳の時に反乱を起こした。原因は、武帝の晩年に検察官に任命された江充である。江充は大臣であろうと皇太子であろうと摘発した。このため戻太子の派遣した使者の不敬を摘発しこれがもとで戻太子が江充を憎むようになった。このことが理由で江充は武帝亡き後戻太子が皇帝となったときの自分の地位を心配し戻太子が武帝に対して巫蠱の妖術を行ったとする罪を捏造し武帝に報告した。これにより追い込まれた戻太子は挙兵した。しかしこの反乱は武帝により鎮圧され戻太子は自殺する結果となった。この反乱のため武帝は皇太子と皇后を殺すこととなった。これが武帝に起きた悲劇である。
この後武帝は、末子の劉弗陵を皇太子として霍光、金日磾、上官桀の3人に後を託し亡くなった。  
以上が前漢の歴史と武帝の治世である。
 
参考文献
(1) 漢の武帝 吉川幸次郎 岩波新書 1949
(2) https;//www.y-history.net/appendix/.wh0203-085.html
(3) https://www.y-history.net/appendix/.wh0203-090.html
(4) https;//www.y-history.net/appendix/.who0203-092.html