まえたなのblog

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東と西の語る日本史

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東と西の語る日本の歴史」という本について
この本は
一はじめに くらしのなかの東と西
二「ことば」と民俗―東と西の社会の相違―
三考古学からみた東と西
四古代の東国と西国
五「しゅう馬の党」と「海賊」
六東の将門、西の純友
七源氏と平氏―東北・東国戦争と西海の制覇― 
八東国国家と西国国家
九荘園・公領の東と西 
十イエ的社会とムラ的社会
十一系図にみる東西
十二東は東、西は西 
十三東と西を結ぶもの 
十四東国と九州、西国と東北 
十五東の文化と西の文化
におおまかに分けて書かれている。
 一「はじめに」では、はじめに私たちの暮らしの中での東と西の違いについて述べている。そして日本人は同じ言語、同じ人種からなる単一の民族であるという通念、にあまりにも親しみすぎているのではないかという疑問のもと論を進め土地によっては言葉はまるで違うことを例に挙げ東と西の違いについて述べている。
 二「「ことば」と民俗」では、「ことば」主に方言に注目して書かれている。他には東と西での嫁と夫の関係の違いについても書かれている。
 三「古学からみた東と西」では、戦後の考古学の発達により次々と発見され報告されたことから分かる東と西との違いについて書かれている。この章で筆者は、芹沢長介氏の、石器作製における東と西との違いの見解を紹介している。加えて、安田喜憲氏の、東の細石刃文化(荒屋型彫刻刀をセットする)には北方の亜寒帯的要素が、西の細石刃文化(半円推型石核を特色とする)には南方の落葉広葉樹林(コナラ・イヌブナ・アカシデなど)の温帯的要素が、それぞれ強く結びついているという指摘を紹介し、東と西との文化の違いは二万年前に根を持っていたと述べられている。また縄文時代における東と西との遺跡や文化の違いや弥生文化の広がり、古墳の拡大などについても書かれている。
 四「古代の東国と西国」では、石井良助しの毛野氏に対する、大和朝廷に対する独立国
家たるの地位を有し、さらに狗奴国こそその前身であるという考えを紹介している。それに対する井上光貞氏の東国を大和の王権による新たな征服地とみる、東国の大和勢力に対する隷属性を強調するという石井氏の対極の意見も紹介している。また西と東との違いにおいては、西は主に船で戦う水軍としての軍事力であり東は騎馬としての軍事力とされていたことに触れて述べられている。それとは別に東国には東北の蝦夷に対する軍事力としての役割があったと述べ締めくくっている。
 五「「しゅう馬の党」と「海賊」」では、九世紀半ば以降、しばらく平穏であった社会が西と東で動き出はじめ、十世紀初頭の延喜の改革をへて、承平・天慶の乱に至る過程が書かれている。この章で述べられている東と西の違いは、西では海賊による反乱が多く、そこでは四章で述べられていた通り船による活動が活発であったと書かれている。それに対し東では、「弓型騎兵武者」だけでなく東国の特徴として東国独自の製鉄技術の発展があったのではないかという研究があることを紹介し西との違いを述べている。
 六「東の将門、西の純友」では、この章の名前にある通り将門と純友の反乱について書きそこから分かる東と西の違いについて述べている。この章で筆者は、将門には全国を支配する意志は毛頭なかったが、東国を支配し独自の国家機構を樹立しようとし、短期間でもそれは実現したという持論を述べている。そしてそれは最初の東国「民族」史における最初の国家の成立としている。また純友の反乱に対しては、船による迅速な機動性をもち、集中的な破壊力をもつとはいえ、すでに陸地に強固な基礎をもつ「本天皇」の国家―王朝国家に対して、水軍による海賊が組織的な国家―海上国家―を作り上げることは、所詮、不可能であり、純友軍の動き自体にも、それをうかがうことはできないと述べている。そして東西の反乱が鎮圧されたのち、水軍としての実力を蓄えた海賊たちが伊勢平氏の武力的な基盤ちなり、東国の騎馬武者を従えた源氏と戦うこととなっていくとして締めくくっている。
 七「源氏と平氏―東北・東国戦争と西海の覇者―」では、はじめの承平・天慶の乱のその後の西国と東国について書かれている。また東北の国家についても触れている。そして安部氏、清原氏藤原氏を例として挙げ東北には東国と結んで西国の朝廷に対抗するか、あるいはむしろ西国の朝廷に従って東国と対決するかの二つの道が必ず選ぶ時が来るとしている。そして東国と東北が戦った前九年合戦、後三年の役を経て関東において源氏が武士の棟梁になった過程を書いている。そして最後に平氏が海賊的武士たちの棟梁というべき存在になった過程を書いている。
八「東国国家と西国国家」では、主に平清盛源頼朝について書かれている。前半では主に平氏が目指した西国国家について書き後半では、頼朝の東国支配について書き締めくくっている。
 九「荘園・公領の東と西」では、主に若狭を例に挙げ西国は郷よりも名によって構成されているといったほうがよいと述べ 西国の特徴としている。それに対し東国の場合は、陸奥常陸を例に挙げ、もとより在庁名は存在するが、それは国衙の所在する郡、ないし常陸の鹿島社のような一宮の周辺のみに限られていると述べ東の特徴としている。また東は畠作、西は水田という違いについても書かれている。
十「イエ的社会とムラ的社会」では、東国は一族単位で勤仕していることに対し西国御家人は守護に率いられ国ごとに勤務していたことを東と西の違いとしている。また東国は、イエ的、家父長的、主従性的であり西国は、ムラ的、年齢階梯的、座的であると述べ東と西の相違としている。
 十一「系図にみる東西」では、若狭の人々がごく例外的にしか東国の人と結婚してないことを例に挙げている。そしてこのことから中世の東国人と西国人の婚姻には、多少なりとも拒否的な力が働いていたことは間違いないという筆者の考えが述べられている。
 十二「東は東、西は西」では、東の鎌倉幕府、西の朝廷のそれぞれの支配について触れ、承久の乱での勝利後の東国の御成敗式目制定の過程を書きそれを東国国家樹立のあかしと述べている。しかしそれはあくまでも東国のみであり御成敗式目が朝廷に深く関与しないことから東と西は一つにはなっていなかったと述べている。その関係が元寇による鎌倉幕府による全国の武士動員で崩れたとして締めくくっている。
 十三「東と西を結ぶもの」では、僧侶の東と西との交流を鎌倉時代後期を例に挙げて述べている。また職人の東と西との交流を忍性が西から伴ってきた石工たちによって残されている東国にある石造物を例に挙げ述べている。そして交通面では、伊勢海からの東国への道や東海道の交通の盛んさを例として述べている。
 十四「東国と九州、西国と東北」では、建武の新政を行う後醍醐天皇に対する足利尊氏の反乱を例として挙げ、東北と結び東国を牽制しようとする西国の後醍醐天皇に対し、九州を指揮下に入れ対抗しようとした尊氏という図式から東北と西国、東国と九州のつながりを述べている。
 十五「東の文化と西の文化」では、東国には日光山を東国における比叡山の位置づけをしていたとはじめに述べられている。また日光だけでなく東国国家は独自の祭祀の体系、年中行事の体系を完成させていたと述べている。他には、室町・戦国期ごろから、東国は馬西国は船という表現が使われていたことを述べ文化の違いがはきっりしていたと述べている。最後に現在の東と西について書きこの章を締めくくっている。
この中から私が指摘したいことを挙げていきたい。
 一つは三考古学から見た東と西と四古代の東国と西国で述べられている狗奴国は毛野国であるという点についてだ。倭の女王卑弥呼は狗奴国の男子の王である卑弥弓呼とと不和であり二国の間で戦闘が行われていたという魏書「倭人伝」の記述から邪馬台国の支配を受けていた地域と隣接していたことがわかる。確かに魏書「倭人伝」のもあるように邪馬台国と狗奴国との間にはいくつもの国があったことから狗奴国が邪馬台国から離れていてもおかしくはない。しかし邪馬台国の場所がはっきりしていない時点で狗奴国が毛野国という前提で書いていることに対しては言い切ることはできないことでありこのことを肯定的にとらえている筆者の意見に疑問を感じた。
二つ目は142ページに書かれている「幼帝安徳と神器を擁して西国に下った平氏一門は、状勢そのものに押された結果であるとはいえ、むしろ清盛以来の構想―海洋的性格をもつ西国国家の樹立に向かって、積極的に動き出した。一戦も交えずに京を捨てた平氏の動きをこのようにみることも可能、と私は考える。」という記述についてだ。
もし仮に筆者の述べるように西国国家の樹立に向かって動く出したとしたならばなぜ木曽義仲に敗れ都落ちをしたタイミングなのかという疑問が生まれた。また平宗盛が父清盛に対し福原から京都に遷都(かんと)することを進言していたことから宗盛が京都ではない福原や西国を中心とした海洋的性格をもった国家樹立を目指したということにも疑問を感じた。
確かに平清盛は福原を都とし宋との貿易などで国を富ませる海洋的性格を持った国家を目指していた。だからと言って宗盛らも同じことを望み動いたと言い切ることはできない。実際頼朝が反乱を起こした際高倉天皇は都を京に戻すことを主張したこの際宗盛も高倉天皇に賛同していた。このことから宗盛は頼朝等反乱軍と戦うには京に都をおき対処することが最善だと考えていたことがわかる。また木曽義仲の入京後、後白河院との皇位継承問題などで対立している際に九州、四国、中国地方の勢力圏を回復し安徳天皇讃岐国の八島内裏から福原旧都に動座させ軍勢を集結させていることから京都奪還を目論んでいたと考えることができる。さらに本書では海洋的な性格を持つ国家の都を九州に置こうとしていたと述べているが九州を回復した時点でそこに腰を据えるのでなく東進の道を選んでいることからも西国国家樹立に積極的に動いたということはできない。
また清盛が目指した国家造りは海洋的な国家といえるが、平氏一門は朝廷の制度内の高い官職に任命されることや天皇との外戚関係などで権力を手に入れていたことから朝廷を完全に無視した国家を作ろうとしたとは考えにくい。そのためいずれは京都奪還し後白河院と交渉または再びの院制停止をさせ安徳天皇を認めさすしか道はなかったはずである。このことからも西国に独自の国家を作ろうと動き出したとは考えにくい。以上のことから筆者の意見を指摘したい。
 以上がこの本の紹介と私が抱いた疑問点と指摘したい点である。この本は様々な点から東と西を比べ違いを述べている。批判点や疑問点を挙げたが全体的にみれば良書といえる。
 参考文献
(1) 正史三国志4魏書Ⅳ 陳寿 裴松之 注 今鷹真・小南一郎訳
(2) 源頼政木曽義仲 勝者になれなかった源氏 永井晋 中公新書 2015年8月25日発行