まえたなのblog

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後白河院と平清盛

後白河院と清盛

後白河院と清盛との関わりは時に協力し時には敵対するという不思議なものである。

保元の乱の時は清盛は後白河天皇方に味方し崇徳上皇方を破った。この時から後白河天皇信西そして清盛の協力体制が実現し平安の朝廷を主導していくこととなる。

また平治の乱の際には源義朝らが二条天皇後白河上皇を幽閉しクーデターを起こした際熊野詣に出ていた清盛が引き返し、二条天皇後白河上皇を脱出させ勝利した。

この平治の乱により朝廷から源氏の勢力は排除され平氏一門の時代となる。

後白河上皇と平滋子

ここで見落とせない関係は後白河上皇平清盛の娘平滋子ととの婚姻関係である。平滋子の死後から平清盛後白河院との協調路線が崩れ始めたことからもこの2人の婚姻関係ば平家政権において非常に重要なことが分かる。

後白河院と滋子の子供が高倉天皇だ。以仁王をはじめとする後白河院の皇子を差し置いて滋子との子高倉天皇が即位できたことも後白河院が滋子をのことを特別に寵愛していたことが分かる。

後白河天皇が平家の武力に頼っていたのも事実だ。この時代、南都北嶺の僧兵が事あるごとに都に来て強訴をしていた。

強訴とは自分たちの納得のいかない事項があると御神木や神輿を担いで都に赴き自分たちの思うように政治をさせようとする事である。

春日大社藤原氏氏神であるとともに貴族は神罰を恐れていたために僧兵に手出しはできなくどうしようもないなかった。絶大は権力を持っていた白河院でされ思うようにならなかった三代不如意にも含まれている。

そんな時に僧兵の対応をしたのが平氏等武士である。武士の力も利用して僧兵に対抗したのである。

清盛も後白河を利用していたと伺えることがある。それは日宋貿易である。朝廷の貴族の多くは日宋貿易を始めることや後白河院が宋の人間と会見することに強く反対していた。そのことは福原を拠点として日宋貿易を行い巨利を得ようとする清盛に対してとても大きな弊害であった。しかし開明的な思想の後白河院は宋に興味を持ち周りの反対を押し切り宋の人間と会見し日宋貿易を承諾した。このことで清盛の壮大な野望が始まったといえる。また建礼門院徳子と高倉天皇との婚姻を認めたのも後白河院である。このように清盛と後白河院壇蜜な関係だったと言える。

後白河と清盛の長男重盛

清盛の娘であり後白河院の妻滋子が亡くなり、後白河と清盛との関係が悪化してきた時にその関係を取り持ったのは平清盛の長男である平重盛と言える。この当時清盛は形的には隠居の身となって福原に住んで日宋貿易のために努めていた。そのため京の都で平氏一門を率い政治を行っていたのは棟梁である重盛だった。

実際清盛が治承三年のクーデターを行い後白河院を幽閉し後白河院政を停止させ関白を始めとする反平氏勢力の貴族を多数解任させ政治の実権を握ったのは平重盛の事後である。

後白河院の清盛に対する挑発

上に述べた治承三年のクーデターの原因としてよく鹿ケ谷の陰謀が引き金で清盛がクーデターを起こしたと言われていて今では通説とされている。しかし私はそれだけではなく数多くの後白河院の清盛に対する挑発行為が原因であると考える。一つの挑発行為は滋子の死後のことである。滋子の死後後白河院が清盛の相談も承諾もなしに滋子の荘園を全てを後白河院の独断で没収した。また同じように重盛の死後にも同様に重盛の所領を没収した。これらは明らかに後白河院平清盛政権に対する挑発行為でありこれこれらは清盛がクーデターを起こした理由の一つとして考えられる。

しかし結果としては後白河院政は停止され平家一門が全国の3分の1を占め高位高官を独占する完全なる平氏政権の誕生したのである。

高倉天皇上皇とし建礼門院徳子の息子安徳天皇天皇とした政権である。

一見反平氏勢力を一掃したかのように見えるこの一連のクーデターであるがこのことが平氏政権の滅亡を早めたと結果的には言える。後白河院が幽閉されたことにより、その王子の1人である以仁王が全国の反平氏勢力に令旨をだいた。平家を打てと。そして従3位源頼政とともに反乱を起こした。その反乱は直ぐに鎮圧され以仁王源頼政は討死したがこの反乱はこの後続く反平氏への戦いの狼煙と言える。この反乱の後伊豆の源頼朝そして木曽義仲平氏政権を倒すべく立ち上がった。さらに清盛の不幸は続く高倉上皇崩御である。このことは平氏政権において非常に大きな痛手である。高倉上皇の名で命令していたことがすべで出来なくなり更には後白河院院政再開の契機となってしまった。

そこで清盛は後白河院と協力しようとしたかもしれない。しかし清盛も程なくして病死してしまう。その後は周知の通り源氏方2連敗しついには壇ノ浦の戦い平氏は滅ぶ。

後白河院は源氏方に味方し木曾義仲源頼朝義経兄弟を上手く利用し平氏を滅ぼし自分の地位を取り戻した。ここに長く続いた平氏後白河院、清盛と後白河院の長きに渡った戦は終止符を打たれたのである。

時には協力し時には敵対し平氏の繁栄と滅亡の両方に関与したのが後白河院である。

平氏滅亡後頼朝とは馬が合わなかったのか頼朝の要望である征夷大将軍に任命することなく崩御した。最後まで権力を武士に完全に渡すことはなかったのである。