まえたなのblog

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源平合戦が好きな人へのオススメな本

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源頼政木曽義仲 勝者になれなかった源氏について

 平安末期、保元の乱平治の乱源平合戦を経て鎌倉時代へと移り変わっていった。源平合戦での勝者となり鎌倉幕府を開いた源頼朝は源氏である。しかし源氏の一族がみな勝者となったわけではなく源頼政木曽義仲のように敗者となり滅んでいった源氏も存在する。その二人、源頼政木曽義仲らを中心に第一章保元・平治の乱へから第五章木曽義仲後白河院、そして源頼朝、そして終章残された人々を通して平安末期について書いている。 
第一章保元・平治の乱へでは保元・平治の乱を通しての、天皇家藤原氏平氏、源氏の権力闘争が書かれている。保元の乱での勝者となった信西入道が平治の乱で亡くなりその後二条天皇親政派と後白河院派との対立を書き二条天皇崩御六条天皇即位、後の高倉天皇立太子で締め第二章へとつなげている。この章で私が抱いた疑問点は、なぜ六条天皇の次を以仁王ではなくまだ幼い高倉天皇にしようとしたこと、またそれに伴っての以仁王に対しての待遇である。確かに後白河院から見た場合平氏との連携を強めるために平滋子の子供を天皇にしたっかたことは考えられる。しかし「八条院と接点をもった以仁王を警戒しなければならない存在となりつつあった」という本の記述から以仁王が警戒すべき対象になるのであれば間をつなぐ天皇または何らかの重要な地位に就かせ対立を回避させることができたのではないかという理由から疑問に感じた。
 第二章平清盛全盛期では高倉天皇の即位から始まる平清盛の一族の台頭から書かれている。そこから、平滋子の死により後白河院の寵姫が高階栄子となりそれにより高階泰経を中心とする新たな院の側近集団が形成され後白河院と清盛との関係が疎遠となり対立していく過程が書かれている。そして鹿ケ谷の陰謀、清盛のクーデターを経て清盛による権力の奪取、その後の安徳天皇即位で締められている。またこの章では八条院以仁王源頼政とのつながりや崇徳院の怨霊にも述べられてる。この章で私が抱いた疑問点は「鹿ケ谷事件は、後白河院延暦寺の大衆と平氏の軍勢を衝突させ、その隙をついて京都の街を武力制圧して平清盛を失脚させようとした事件である」という記述についてだ。なぜならこの本の記述にもあるが、後白河院天台座主明雲を解任したことから朝廷と延暦寺との関係は決して良いものではないため協力関係となるには無理があるからだ。また後白河院が計画したという点について指摘したい。後白河院が鹿ケ谷に行幸した際、藤原成親が酒の入った瓶子を袖で倒し「平氏倒れ候ぬ」とはしゃいでいる。そのようなことから後白河院がこの成親らの様子をみて本気で平氏打倒を計画したとは考えにくい。また成親らが流罪となっているのに清盛が後白河院に対して何もしていないということは後白河院が直接関わっている決定的なものがなっかたからであろう。治承三年のクーデターにより後白河院を清盛が幽閉していることから決定的な証拠があれば鹿ケ谷の陰謀の際に幽閉していてもおかしくはない。
 第三章以仁王の挙兵では安徳天皇即位に始まり、以仁王源頼政の挙兵を経て福原遷都、その後の頼朝挙兵で締められている。紀伊国での熊野新宮合戦時に湛増が福原の清盛に対して大戦の経緯と、その背後に源行家以仁王の陰謀があると報告したことが端を発し、以仁王がだんだんと清盛に追い込まれていき最後は挙兵して敗れ死んでいく過程が書かれている。また以仁王に味方するか追補使としての役割を果たすのかに苦悩した源頼政の立場も書かれている。ここで私が指摘したい点は頼政が苦悩したうえで五月二十二日未明に園城寺に入りその時反旗を翻したと説明している点だ。治承四年四月九日に以仁王源頼政が謀議のうえで、諸国の源氏と大寺社に平家追追の令旨を下していることから、ぎりぎりまで頼政以仁王に味方し平家に反旗を翻すことについて苦悩していたということはおかしい。以上のことから指摘したい。
 第四章木曽義仲の激闘では木曽義仲の挙兵に始まり、義仲の上野国の進出、横田河原の戦いを通して武家の棟梁と認められ勢力を拡大する過程が書かれている。またその後の俱利伽羅峠の戦い、平家都落ちを書きこの章を締めくくっている。この章で私が疑問に感じた点は、「養和元年の段階で、源頼朝の勢力圏は亡父義朝の時代よりも広くなっていた。ここで朝廷に帰順しても、頼朝にとって満足のいく結果ということができる。」という記述についてだ。なぜなら頼朝が挙兵した理由が平家討伐であり領地拡大が一番の理由ではないからだ。また平氏が都にいるこの時点で平氏と停戦し朝廷に帰順したとしても頼朝側のメリットは何もない。このことからとても満足のいく状況ではないといえる。また本書では、坂東で孤立した状態に頼朝がいたから後白河院からの接触に、積極的に受け入れる姿勢を示したとあるが朝廷における最高権力者である後白河院からの接触に応じないことは後白河院との関係を築けないどころか今後の関係を悪化させる可能性すらある。よって頼朝が後白河院接触したことは決して孤立したからではなく平氏と戦う上でまた平氏に代わり政権を取った後をみた場合後白河院と友好関係であることは最重要事項であるからだ。このことは、頼朝が頼朝に従い戦った御家人本領安堵により主従関係を築いたことから土地の支配に関しての任命権を持っている後白河院との関係がとても重要であるということがわかる。これらのことから上記にあげた二点に対して疑問を抱いた。 
 第五章木曽義仲後白河院、そして源頼朝では、朝廷での恩賞問題や皇位継承問題をめぐる後白河院木曽義仲との対立、その後の義仲の孤独になり滅んでいく過程が書かれている。 
最終章残された人々では、以仁王源頼政の子や見方であり生き延びた人々の人今後を書き締めている。