まえたなのblog

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徳川綱吉

徳川綱吉

生類憐みの令

徳川綱吉は生類憐みの令により人間より動物、特に犬の命を重んじたため暗君と考えられている。しかしこの政策にも見るべき点はあると考える。生類憐みの令以前の江戸時代には、切捨て御免など戦国時代から残る物騒な慣習が残っていた。しかしこの法令によって虫一匹も殺すことが許されなくなったため命を重んじる風潮が生まれた。このためこの政策は江戸時代を考える上で大きな平和への分岐点だと考える。

また犬を食べる習慣がなくなったことも今の私たちからしたら良い点だ。

   政治の天才徳川綱吉

  また私は徳川綱吉は政治の天才だと考える。

徳川綱吉以前の3代将軍徳川家光、4代将軍徳川家綱の時代は老中による合議によって政策が決められていた。よって将軍の独裁による政治を行うことはできなかった。しかし徳川綱吉は老中と将軍の間に側用人という役職を設け老中等が合議で決めたことを将軍の前に側用人に報告させるようにした。もちろん側用人は将軍の思うように政治ができるように動く。このため老中等が合議で決めた政策を将軍が気に入らなければ自分の前に報告を受ける側用人に否定させることができる。その場合老中等は側用人が納得するまで政策を考え直す。そのため最終的には将軍が望む通りの政策を実行できるということだ。もし仮に側用人がいなければ老中が合議で決定したことを将軍が拒否できない。そのため決して独裁政治はできない。その場合悪政と言われている生類憐みの令が実行すること自体ができなかった可能性が高い。よって生類憐みの令を実行できた事自体が徳川綱吉に政治力がある証拠と言える。

 綱吉の朝廷

 徳川綱吉は1687年に霊元天皇の譲位後、東山天皇の即位にあたり、重要儀式である大嘗祭の復興を許可するなど、朝廷儀式の復活に理解を示した。さらに歴代天皇の山稜が荒廃していることを聞き、神武より崇光までの78代陵を調査す、66陵を新たに確定して修復にあたらせ、1699年に完了させた。1687年3月には明正院の御料7000石を加増し 1705年1月には禁裏御料を1万石加増するなど朝廷に配慮した政策を多数行っている。これらのことは朝廷と協調路線を取りつつ、禁中並公家諸法度に定められている天皇家の学問である歌学や神道を従えようとする意図の現れとも見ることができる。天皇家の特権を従えようとしているが、今後の天皇家や朝廷と協調路線を歩むどころか関係を悪化させた将軍に比べると朝廷との付き合い方からも高い政治力が垣間見れると考える。

まとめ

生類憐みの令の実施 老中と将軍の間に側用人を設ける仕組みの作成、朝廷との協調路線の展開これらのことから見るに私は徳川綱吉はこれまで言われてきたような暗君ではなくむしろ高い政治力をもつ有能な将軍だったと考える。